道端の草になれたら

血止草(チドメグサ)という雑草がある。繁殖力旺盛で半日蔭を好む雑草で、道端でよく見かける。この丸い葉っぱを傷口にぺとっと貼り付けるのかと思っていたら、つぶして汁を塗るのが正しい使い方らしい。

小学校の帰り道。
そもそも学校というところがあまり好きではなかったので、楽しい日はあまりなかった。結構な頻度で帰り道はとぼとぼとくらーい気分で帰ったものである。通学路は開けたとはいえ、田んぼのあぜ道に近くて、周りには草がぼうぼう生えていた。ほぼほぼ家に近いあたり、子供が野球できるくらいのグランドがあったのだけれど、その土手の下の道が通学路だった。舗装もされてなく(のちにアスファルトの道になったけれど)砂利を引いた道で、この辺りまで来るとあまり陽が当たらないせいか、すぐそばに池があったせいかいつもジメジメしていた。

その土手下あたりに群生していたのがチドメグサである。春になると雑草といえども色とりどりの花が咲いて、夏休み明けにはどんだけ伸びたんだというほど草の生い茂った道端だった。

楽しくない帰り道、凹んでとぼとぼと帰る帰り道は、学校で面白くもなく、帰ってからも面白くもないことへのいら立ちと情けなさと。いろんな感情がもみくちゃになって、これを1年といわず何年も続けたのだから、我ながら立派である。

帰り道、この土手下まで来るといつも思った。
この草になれたら世間はどう見えるんだろう、と。
たいして変わり映えしない毎日で、雨風遮るものもないけれど、もしかしたら頑張る必要もなくのんきに暮らしていけるんではないかとよく思ったものである。

そして、もう50年近く経とうとした今でも、ついそんなことを考える。
雑草に感情はないかもしれない(音楽を聞かせるとおいしくなる果物やトマトはあると聞いたことはあるけれど)。雑草自体にはあまり価値もないかもしれない。

雑草に限らず、この世の生物の目的は繁殖し繁栄することだと聞いたような気がする。たとえ意味も価値もなくても、淡々と日々成長し、種を飛ばし、芽生えて広がっていく。とてもシンプルな生き方だけれど、負けない強さがある。自分自身はそこを動くことはなくても、飛ばした種はいろいろな形でいろいろなところへ旅をするのだろう。

とても、今日が嫌だからと言って、簡単にはなれそうにはない。
それでも、怒られてばっかりの憂鬱な毎日に居て、この草になれたら、、と考えるのは少し救いだったな、と今思う。今でもそう思う。

0(ゼロ)オリジン(2)

オシゴトの環境変化

ジョブ型にシフトしようとする動きがあることは前に書いた。そうして、おそらくそれはすぐに成果が出るほど簡単な選択ではないことも。
特にここ数年でシゴトをする環境は劇的に変わった。パソコンすら1人1台もなかった時代に入社したくらいだから、今の会社の状況を見るとSFの世界が現実になったと言っていいくらいの変化だ。
モバイルPC、携帯、クラウド環境を基盤として、電車の中だろうが布団の中だろうが、どこからでもシゴトができる環境にアクセスすることができる。なんなら非常識を承知で電車の中からでも会議に出ることができる。便利なんだか便利ではないんだかよくわからない。 だんだんと会社と生活との境界線がなくなりつつある。

専門性は運次第

最近、入社の時点で専門性を武器として入社してきた新卒社員に、古参社員と同様能力給を出すという会社の記事を見た。
NEC、新卒採用に“能力給”導入
働き方改革は、労働人口の減少に対する対応策だと言ったけれど、実際にはそうではない。ジョブ型のように「シゴトを選ぶ」だけのスキルを持った人材が不足するだけで、いわゆる定型作業を行う人材がたくさん増えてもそれはそれで解決にはつながらない。
ところで、専門性というのは、天性のものではないから一朝一夕に得られるものではない。と、少なくともわたしはそう思っている。もともとこれを極めたいと思いながら勉強をしてきた学生ですら、会社に入れば思い通りの部署で思い通りのことができるとは限らない。会社が人を募集する際には、会社のコンセプトを掲げて募集するわけだから、中にいる個々の社員が自分がそのコンセプトのどこを担っているのかわからないのと同様に、コンセプトだけ掲げられた学生がそれだけでどのような作業が待っているかなど知る由もないわけだ。ただ、入社すれば給与と福利厚生は約束される。
最初に配属される先は会社の都合で決められるので、入ったはいいが現実が全然違うといって辞めていく社員も増えてきたらしい。そうでなければ、専門性は入ってから徐々に経験を積んで培われていくことになる。裏を返せば、配属先で何を専門とするかが決まってしまう。
将来性のある専門領域ならいいだろう。あるいは、未来に渡ってつぶしの効く職種でもまだいい。最悪なのは、会社の方針転換で撤退する事業に関わっていたり、他では使い道のない領域に関わっていた場合である。それも、大所帯で考えることなく言われた通りに作業をするような役割を与えられていた場合はさらに最悪である。

0(ゼロ)オリジンの世代

人は楽な状況に慣れるとそれ以上のことをあまりしなくなる。
せっかくの機会だからと新しいことに興味を持ったとしても、自分の作業をおろそかにすることもできない。
これと言った専門性がないまま時間をすごすことになる。
こういう人が明日からジョブ型だといわれて、さて、どのような役割に応募すればいいのだろう。まさに0オリジンの状況で始めなければならない。
そして、そういう時間を過ごしてきた世代は、押しなべて今会社の中で高齢層に属している世代なのである。

0オリジン世代のトリセツ

0オリジン世代の特徴を挙げるとしたら・・こんな感じか。
・頑固である
・変化を嫌う
・会社のせいにする
要は年寄りである。新しいことに取り組もうにも頭は固くなり物忘れもひどい。そうかと言って会社にここまで貢献したとい自負もある。こういう世代なら、ちょうど子供が成人するかどうかという年代なので、会社にしか居場所がない人もいるだろう。やったことがないのだから、やれば失敗する。失敗すると笑われるから失敗はしたくない。いろんな葛藤の中で、少なくとも今のポジションとステータスに固執する。極端かもしれないが、あながち外れているとも思えない。
如何せん時代の変化が速すぎるのである。若手のエンジニアですら、もう終わったと思うことも少なくないらしい。ハンデのある年寄りがいきなりチャレンジしても返り討ちがいいところだろう。クビが飛ばないだけいいようなものである。
では、、0オリジン世代はどうすればいいんだろう・・。
答えは一つしかないと思う。
0オリジン世代が生き残りをかけて自己改革できるかどうか。
恥も外聞もなくかなぐり捨ててチャレンジしてみるとか、自分はこれならできるという意思表示ができるかどうかだと思う。

こういうのはきっとこれまでの歴史に何度もあったことなんだろうな。

天井のヒカリモノ

いつ頃だったか。。。よく覚えていないけれど、たぶん小学生の頃だったと思う。平屋建て県営住宅の天井はオオミズアオ色のプレートのような建材でできていて、一辺が50cm~60cmくらいだったのではないかと思う。これを並べて打ち付けてある。必然的に境界線があって、毎夜寝るときに電気を消すとその中のなぜか一遍だけがぼーっと明るく見えるという現象があった。
一度だけ親に言ったことがあったけれど、相手にされなかった記憶がある。
それ以上でもそれ以下でもなく、そのうち二段ベッド導入してからは、その角度からは見えなくなったので、原因はわからないまま。
一部屋増築してからは、そちらで寝起きしていて、その部屋は親の部屋になったからそれきりどうなったかわからない。

今だから考えられること。
どこからか入る灯りが漏れていたのかもしれない。みんな電気を消して寝静まった後だから考えにくいことだけれど。
単純にそこだけ蛍光塗料のようなものが付いていたのかもしれない。
目が悪かっただけかもしれない。
どれも今一つピンとこないけれど、もう何十年も前の話でその家は解体されて跡形もないから確かめる術もない。

ただ、あの家は今思うと本当に狭かった・・。今だったらきっと暮らせないかな、とは思う。
ただ、毎日窓から見えた竜王山のテレビ塔とか、庭先で育てたネギとかきゅうりとか。懐かしいものもたくさんある。

0(ゼロ)オリジン(1)

ゼロオリジン

オリジン(Origin)、というのは直訳すると「原点」である。原点というからにはそこを「起点とする」ということになる。だから、ゼロオリジンというと0を起点として、という意味で、1オリジンというと1を起点として、という意味になる。
よく似た感じの言葉にOriented(~志向の)という言葉がある。便利なのであちこちで見かける。IT関連だとdata-oritented、user-orientedなどなど。これはどちらかというと、起点というよりは「優先的に考える」というベクトルを示した言葉だと思う。もう一つ、Baseline(ベースライン)という言葉も少し似ている。こちらはその通り基準線という意味なので、点であるオリジンと比べると複数の要素をまとめた状態を表している。

さて、冒頭の0オリジン。要は0からの出発なわけで、何もない状態から始めるという意味に転用できる。同じ意味で0ベースという言葉もよくつかわれる。とにかく何もないことである。

働き方改革のもたらす悪癖

最近「働き方改革」で個人や企業にスポットを当てた取り組みをよく見かけるけれど、単純に労働時間を短くしたり、働く場所を自由化しただけでは、会社としては投資ばかりがかさんで回収に至らないことが容易に想像できる。つまり、残業込みで達成できていた成果が残業なしになって今日明日出せるものではないということである。ヒトの性質を考えると、楽なものにはすぐに慣れてしまうので、このまま放置すればおそらく社会的な体面は保てても成果はダダ下がりになる。働き方のマイナス面である。
そこで会社も考えた・・・んじゃなかろうか。「ジョブ型」という考え方が出てきた。出てきた、というわけではなく、もともとあったものだろうと思う。ただ、これまで顕在化してこなかっただけで。

ジョブ型とメンバーシップ型

ジョブ型の対向用語はメンバーシップ型だそうだ。メンバーシップ型はいわゆる年功序列方式、一括採用方式でこれまで(今でも)主流の会社の雇用方式である。会社主体なので、自由度は少ないかもしれないが使える社員になるべく会社がケアしてくれる。また、保障も手厚い。
一方のジョブ型は、平たく言うとその反対で、仕事ありきで人と契約する雇用方式になる。その仕事ができることが前提条件となるわけだから、当然会社側は教育したり、契約以上の保障もしなくてもよくなる。雇われた方も、自分が売りにしている能力を買ってもらうわけだから単金は高いだろうし、契約内容にないことまでする必要がない。一見Win-Winに見えるけれど、会社で働く人全員がジョブ型になると、契約だけで大変なことになるような気がする。

会社の構造

今でもそうだけれど、会社には会社としての存在意義がある。つまり、社会に対してうちの会社はこうやってお役に立てます、というコンセプトのようなものである。ニーズがあれば売れるし、なければ振るわない。その辺は、スーパーで売っているモノと変わらない。もう一つブランドという側面もある。対してデザインもよくないし到底普段使いにできないでしょ、というモノでもLouisVuittonなら売れるというのと同じで、歴史と積み重ねた実績・信頼で裏打ちされた会社の価値のようなものもある。そして、それらの会社は長年メンバーシップ型の雇用を続けてきた。
会社に入るとわかるが、自分のやっている作業が会社のコンセプトのどのあたりに位置するモノなのかを見ることは難しい。全体としての方向性が大幅にずれていない限り、、、例えば、IT企業がうどんを作るということでもない限りは、会社は利益を追求する組織だから予算必達が命題で、さまざまな作業を請け負いこなすわけで、余計見えにくくなる。個々の位置から全体が見えなくなるなら、逆に上から見て個々の社員が何をしているのかなど見えようもない。そこは巨大なヒエラルキー構成の中で直近が下を見る(良くて上の上くらいまでは見るかもしれない)という構造でなんとか凌いでいくことになる。
個々=一人ひとりの社員は人なので個性もあれば個体差もある。むしろ、全員が全く同じ状態ならクローンのようで気味が悪い。
そして会社には時として利益を追求するために大幅な方向転換や組織の改正がある。
そこではどうしたって、スピンオフしてしまう個体が出てしまうのは当たり前の理屈である。
・いわれたことをこなすのに慣れてしまう
・会社が決めてくれる
・さぼってもわからない
こんな個体はおそらくどこの会社を見ても必ずいる。押しなべて個人が悪いというよりは大半は会社の責任だが、その会社も変えなければ倒れてしまうので責められないというこちらはLose-Loseの関係にあるように思う。

会社はジョブ型に移行できるのか?

思うことだけ言ってしまえば、できない。
ジョブ型の特徴はシゴトありきで人を割り当てる、である。もっと言えば、シゴトありきで応募した人の中から割り当てる、となる。必然的に上司は上司という「役割」に対して、部下は「部下」という役割に対して、つまり、そのシゴトを構成する業務の役割と活動の募集に対して応募する。
よくシゴトを取って、協力してくれるパートナー社員を探す、ということをするけれど、極論それと同じことを会社の中でやろう、ということである。
気の遠くなるリスクとオーバーヘッド。
もちろん社員が全員個人事業主ならともかく、シゴトを受けないからといって会社は雇用契約をしているので、給料は支払わないといけないし、福利厚生も手厚くしなければいけない。これでは、よほど残業代が欲しい人以外はWin、会社はLoseの関係になる。
では、全員個人事業主にしたら?まず、会社の組合は解散になるので、面倒な交渉はなくなる。社員は一人ひとり自分に対する福利厚生を考えないといけなくなる。シゴトも自分からやります、やらせてくださいと言わなければなくなる。個人事業主なので、最低賃金の保障はない、ただお金が入らなくなるだけである。会社は社外からでも好きなだけ人を雇えるようになり、福利厚生も考えなくてよくなるので、結果的にうまく回れば成果は出るだろうが、何を売りにしているのかよくわからない集団になる。いいとも悪いともつかない主体が2つこれもまたLose-Loseの一つの姿である。
おそらく、会社という組織において、ジョブ型の雇用ができるのは、マネジメントを売りとする会社なのではないか。モデルエージェンシーとか商社とか、芸能プロダクションもそうかもしれない。つまり、マネジメントする対象はすべて外から雇うのが当たり前の会社である。

ジョブ型移行のジレンマ

今あまたある会社をせ~の!でジョブ型にシフトすることは難しい。というより土台無理な話である。逆に会社のすべてをジョブ型にすること自体が非効率につながる。会社には受けたシゴトをこなすためにある程度の労働力のストックが必要で、ストックした労働力をストックで賄いきれないだけのシゴトを請け負うことで利益を出す。そこにジョブ型の要素はあまりない。あったとしても請け負ったシゴトの中でどれをやりたいか程度のものだし、シゴトをストックに選ばせては効率化は図れない。もっと言うとストックは必ずしもジョブ型志向の個体で構成されていないのが現実なので、ストックの中で比重にばらつきが出る。負荷が重い個体は作業をこなすだけでいっぱいになる反面、この個体が一番ジョブ型に適したモチベーションを持っているのだから性質が悪い。これがジョブ型移行のジレンマだと思う。
一日の労働の中の20%を新しい領域へのチャレンジを行うとか新しい取り組みを考えることに使う、とか。いろいろな提案が会社からは出てくる。苦肉の策なのだろう。
会社の中で各部署からお願いしたいシゴトをエントリし、それに応募してもらうというう企画もあった。
結果はいずれも惨憺たるものである。どうしてか。

ジョブ型移行のカギは

ジョブ型雇用はシゴトありき。ジョブに応募するにはそのジョブの特性に応じた専門性が必要なものである。専門性とはなにか。その領域のプロであり、高い生産性と場合によっては付加価値を提供できることである。ただの素人が1日の20%考えたり、小作業とはいえやったこともない作業に応募したくらいでジョブ型移行にはたどり着けない。
そもそもジョブ型の大前提が「個人」なのだと思う。自分もしくは自分が率いる組織がその領域について高いスキルをもっていなければジョブ型には移行できない。同じ理屈で、組織に所属するメンバも全員高いスキルと知見を持っていなくてはいけない。日々自己研鑽し磨き上げていくルーチンがない状態ではとてもそんな状態にはならない。
裏を返せば、そういう状態になればジョブ型の契約はできるということになる。
「その領域のプロ」という言葉を敢えて使った。プロといわれる人は、その専門的なスキル以外に社交性、交渉力、専門以外の知識といったフルレンジの要素を備えていることが多い。専門性だけではプロにはなれない。

会社はジョブ型に移行できるか。「育てる」という概念から「自ら学ぶ」という概念へ。「ただの配属先の組織」から「目的を持った個人の集まり」という概念へ。どこまでシフトしていけるかが、一つのカギになると思う。
日立の雇用改革 その本気度は?

郵便番号732 西条東517-1の32号

むかしむかしの住所である。近隣の町村合併で市になる前で、小学校はまだ町立だった。
保育園に通った2年間(年中は黄組で、年長は緑組だった)のうち、最初の1年の途中で移り住んだと思う。それから高校生になっても、まだそこに住んでいた。県営の住宅である。
1軒が2世帯。平屋建てで1軒の広さは2DK。一応お風呂もトイレもあったけれど、なんもかんも木造で屋根はスレートだった。壁はぬりかべ。
子供の頃はわからなかったけれど、32号は敷地内で一番低いところにあったせいか、水が溜まりやすく、やたらと湿気が多かった。箪笥の化粧板ははがれてボロボロ、テレビがショートしたこともある。
家の外にはミミズ、ダンゴムシ、なめくじのオンパレード。台所の砂糖にありの行列ができたこともあった。コックローチを通り道に吹いて寝ると、朝ゴキブリを踏む。イタイ。夜中に目が覚めてのどが渇いた、と思ったら、台所のタッパ(洗わずに寝てしまったのだろう)の中に巨大なヤマトゴキブリがいて、黙って電気を消して寝たこともある。
梅雨時の夕立では住宅中の雨が集まって床下浸水した。
家々を隔てる仕切り(今調べるとマサキという樹木。秋にはオレンジ色の実がなった)にはなぜか夏ごとに大量のしゃくとりむしが発生し、ほぼ全部がシャクガ(ユウマダラエダシャク)に成長した。ヒトの目のような文様が嫌いで、飛ぶとなぜかこちらに直進してくるので、必死で逃げた。

冬は窓ガラスについた水滴が凍って結晶を観察できた。もちろん窓は木枠である。家のドアも便所のドアも全部木製。一番上のガラスだけ透明であとはすりガラスだった。今どきすりガラスも珍しい。
レトロな扇風機しかなかったところへ、ある日ウィンドファンがやってきた。窓に着ける扇風機のようなもので冷房機能はない。でもうれしかったっけ。

中学生になってから、父親が庭をつぶして一部屋増やした。今思うと器用な人である。ガラスはサッシだった。壁はベニヤ張だったけれど、間には断熱材が入っていて、なんとエアコンがついた。壁に取り付けるタイプのエアコンである。

確か高校生になるころ、平屋建ての家は壊して鉄筋コンクリートの今の住宅に建て替えられた。4階建て。うちは確か3階だった。フローリング、サッシ、ベランダ、コックピットに入るようなユニット式の様式トイレにお風呂。
荷物を入れるとあっという間にいっぱいになった。

ここから嫁に行ったし、一人息子はここで預かってもらった。家族は5人だった。自分の部屋もなく、言い訳のようにプライバシーがないのはいいことだと言われてうんざりしていた。もうかれこれ25年も前の話である。自分はもうじき56歳で、シゴトについてしばらくしてから2年くらいは広島市内に住んでいたから、ちょうど県営住宅で過ごした時間と同じくらい今の家で過ごすことになる。

今でもどこかで似たような住宅を見ることがある。きれいに手入れされていたり、廃墟に近かったりと容貌は様々だけれど。
あの頃は本当に貧乏だった・・・。いい思い出を探そうとしても、いやな思いでばかりが浮かんでくる。自分の家がそこだと、どれだけ人に知られたくなかったか(笑)。

今はねぎさんが荒らし放題に荒らした家の壁紙やふすまを見て、これはこれで人には見せられないと思うけれど。それでもここは一生懸命働いて手に入れた自分の家だ。それだけはうれしい。

SNSは誰のため

Facebookの投稿はわりとよくするほうだと思う。つながっている友達の多くは同級生で、当時あまり縁のない人も多い。考えてみればそれもまた不思議な縁である。
Instagramも自分でいい写真が撮れたと思えば投稿する。人を撮ることはまずない。たいてい風景だったり、電車だったり。
どちらも時間に縛られない情報共有型。投稿してもしなくても、投稿を見ても見なくてもどちらでもいい。このゆるさ。けれどどこかに「属している」という感覚がいい。
LINE。使いはするけどめったに使わない。これなしでは生きていけないという人もいるけれど、生きてる。相手に必ず返信を期待するインタラクティブ型。めったに使わないけれど、使うときには使う。PCを開いているときには、LINEよりもMessengerを使うことのほうが多い。シゴトがらタイピングはそこそこ速いので、PCで使えるMessangerのほうが便利。

けれど、、あれだ。最近ちょっと疑問に思えてきた。
InstagramやLINEはともかく、なにかを広告したいというわけでもくFacebookに投稿するのはなんだろう?やっぱり、誰かに何か言ってほしいからだろうか。投稿するときは比較的長い文章を書く性質だ。自分の書いたものを何度も推敲して投稿する。SNSとは言えないおそろしくまどろこしい投稿は、つまるところ何か書きたいからなのだと最近気が付いた。文章をおこすという作業は、アタマの中を整理するのに役にたつ。表現することで自分の言いたいこととか、考えていることが自然と整理されることがある。誰かに説明しながら自分でそういうことか、と納得するのに似ている。でも、それならばいっそSNSでなくてもいいんぢゃない?

ということで、サーバをレンタルしてブログサイトを立ち上げてみた。
決まったテンプレートの範囲ではあるけれど固定ページも作れるので、これでポータルも作ってみた。お気に入りのリンク集みたいなものである。ブラウザのトップページをいちいちパソコンに保存していなくてもどこからでもっ見ることができて作業ができる。
スマホでもパソコンでもほぼ同じような操作性と見た目なので、Facebookのように出先で撮った写真をそのままアップすることもできる。Facebookにもあるけれど使えたことのない下書き機能も用意に操作できる。便利である。

FacebookはFacebookでよいとして、当面日々思うことはここに書いていってみようと改めて思った。

働き方改革ってなんだ?

働き方改革

「働き方改革」という言葉はどこから出てきたんだろう。
かれこれ何年かこの言葉を聞いているような気がする。
調べると2018年6月に法案として可決されて、2019年4月が施行だった。
そもそも・・なんのためにこんなことを始めたかというと、人口減少で働く人が少なくなるから、それを救済するのが目的だったらしい。救済するにはどうすればいいのか・・・と考えた結果がこれである。
「働き手を増やし、出生率を上昇させ、労働生産性を向上させる」
つまり、子供を産んで人口を増やしなさいということらしい。考えようによってはダイレクトな政策だけれど、植林と同じくらい時間を要する政策だともいえる。
絶対数が決まっていて、一人当たりの労働時間を制限した状況で「働き手を増やす」には、つまり「働いていない人は働きなさい」だ。きわめて画一的だと思う。
とはいえ、、昨日まで家にいた人に今日から外で働きなさいといっても土台無理な話。
この路線でいけば、もう一つできることがある。「働いている人は生産性をあげなさい」である。 つまり、「残業でこなして成果を定時間内に出しなさい」だ。ある意味妥当だとは思うけれど、一律にできるものでもない。
結局、あまりにもユースケースが多すぎて、すべてを一通りのルールでくくるのはかなりハードルが高い、ということではないかと思われる。
「働き方改革」で、本当に労働人口は増えて、出生率は上がるんだろうか。

ドイツの働き方

よく引き合いに出される製造業が主力のドイツの働き方。日本と比べると年間で350時間くらい労働時間が短いらしい。便宜的に1日7時間働く計算だと50日くらい。実働1ヶ月20日だとすると2.5ヶ月も短い。けれど生産性は日本の1.5倍らしい。
ただし、日本では当たり前のお店のお土日営業は限られているし、サービスもよくはないらしい。
逆に言うと、土日に営業して、おもてなしを最優先に考えると年間で2.5ヶ月分余計に働かないといけないということか。

便利さか?

平日に働いている人は、土日にまとめて家事をしたり家族サービスをしたり。とにかく「先送りした作業を」休みにこなそうとする。買い物も片付けもおしなべて平日はできる範囲で土日にまとめてやる主婦も多いと思う。いまでこそ洗濯は毎日多いときには朝晩にするけれど、若いころ一人暮らしをしていた時には土曜日にまとめて一週間分の洗濯をしていた。汚い話である。
いずれにしても、土日に買い物に行こうとするとスーパーは開いてなくては困るし、遊びに行こうとすると観光地のお店や飲食店が営業していないと大変なことになるだろう。
仮に・・・日本のお店が一律土日祝日に休んだとして。どうなるか。
・買い物や片付けは平日に休みを取れば行ける。
・観光は、長い休暇を利用すれば行ける。
・営業する側からすると、同業者との競争を完全に抑止できれば(平日だけで勝負になれば)安心して休める。
なるほど、こう考えるとドイツでどうして土日にお店が閉店できるのか、休暇が長いのか、労働時間が短いのかがわかるような気がする。

豊かさか?

「豊かさ」というのはなんだろう?と考える。人によって尺度が違うから一概には言えないけれど、最初に思いつくのはやっぱりお金だと思う。夢だけでは生活はできない。
次に考えつくのは保障。いろいろあるけれど、健康保険であったり、行政サービスであったり、生活するうえで必要なサービスが受けられること。
3つ目は何だろう・・と考えて、はたと行き詰る。さて、なんだろう。
自分で自分の「豊かさ」がわからんとは。この辺りはもう少し考えないといけないところだと自省。

定年延長

さて、それで働き方改革。
なんとなく働き方改革=テレワークのようなイメージが定着しつつあるような気がするけれど、もともとの主旨からするとそうじゃない。テレワークはあくまでも手段であって目的ではない。テレワークをしても生産性が維持もしくは向上できなかければ働き方改革にはならない。
もう一つの顕著な傾向が定年延長。昔は55歳が定年、今は60歳、たぶんそのうち65歳になるだろう。そのぶん年金支給開始年齢が高くなるのだから、これはもう「年金使いこんでます、払えません」と言われているようなものじゃないかと時々思う。
2020年になって会社のルールが変更されて役職定年(56歳)が撤廃された。それまでは56歳から60歳まではスタンドプレーヤーとして会社に残るか、セカンドキャリアで別の仕事を探すか、はたまた辞めるか、だったのが、いきなり現役続投である。正直管理職も面倒になっていたので、これは少々がっかりした。
労働人口を増やさずして、労働期間を延長するとは。。別の見方をすれば確かに本来なら第一線でなくなる人をそのまま残すわけだから、労働人口としては増える試算になるのかもしれないけれど。抜本的とは言えない。

そして、働き方改革

働く人を増やしたい。つまり子供を増やすことと、年寄りが働くこと。
なにやら戦時中の趣のような気もする中、ふと思いついた。
たぶん、今のままの働き方改革では成果はでない・・・。
テレワーク・・悪くない。悪くないけれど、できた余裕は自分の生活のために使われるのだろう。
年寄りのシゴト・・悪くない。悪くないけれど、なにを?
これまで長らく続いてきた「風習」を突然の政策で切り替えるのはかなりハードルが高い・・・たぶん。人は「やらないといけない」あるいは「やりたい」と思うことでなければやらない。
働き方改革は、会社がテレワークをすることでは取り組みとは言えない。会社はテレワークで個人の自由時間を増やして、あとはご自由に、というスタンスだと思う。もっと広範囲、たとえば、世帯とか自治体とか県とか、縦横のつながりを俯瞰的に見て取り組まなければ実現しないのではないかと思えてならない。

さよなら保育園

いまだに覚えている。この歌に2番の歌詞はあったんだろうか。
検索しても出てこないので、もしかするとオリジナルだったのかもしれない。

さらさらはるの おがわのほとり
つくしのぼうや かくれんぼしてる
さよなら さよなら ほいくえん
さよなら さよなら ほいくえん

保育園の思い出

  • 園のシンボルだった銀杏の大木は、理由はよくわからないけれど、ある時切られていた。毎日電車に乗るときに見ていたのに、保育園の近くまで行ったのは本当に数えるほどだった。秋の銀杏の匂い、今でも覚えている。みんなは臭いというけれど、わりと好きだった。
  • 園の建物はL字型。端っこに少し大きめの教室があって、お遊戯会はそこがステージだった。
  • 雪の舞うクリスマス会でサンタさんからもらったのは3色のくねくね曲がって形を変えられるチョークのような形のおもちゃだった。
  • 鉄棒から落ちて、踏み台のコンクリートブロックにおでこをぶつけて、擦りむいたところにつけてもらった薬は、オロナインと赤チンで朱肉のような状態になった。
  • 年長の時のお遊戯会でアタマにかぶった烏帽子は、紙製で金色の紙を貼り付けて作るのだけれど、編み物教室でみんなで作って一番きれいなしわ一つない烏帽子は、なぜか友達の頭に乗った。
  • 黄組の頃、食べるのがとろくさくて、最後の楽しみにとっておいたミカンを緑組の川瀬さんという女子が奪っていった。彼女は今元気なんだろうか。
  • 年長さんになるとお弁当に菓子パンを持って行った。毎朝近所の雑貨屋で好きな菓子パンをひとつ買って鞄に入れていった。チョコかけとサンライズとデンマークロール。今でも大好きである。
  • お昼寝の布団は緑の小花のシーツだった。いつもなかなか寝付けなくて、いったん寝ると起きられない。50歳くらいまで直らなかったな・・。
  • ミルクは牛乳ではなく脱脂粉乳。これがまずい。非常にまずい。一度こぼしたことがあって、こぼれた形が怪獣に似ているとからかわれた。泣いたかどうか覚えていないけれど、きっと泣いたんだろう。
  • 大人になってから、制服のポケットにはいつも食べられなかったおやつのお菓子がチリシにくるまれてはいっていたと母親から聞いた。そんなこと何も覚えていない。お迎えが来るまで柵につかまって待っていたことも。
  • 卒園間近になって、ひらかなの練習をした記憶がある。きっと幼稚園から来た子と差がでてしまうからだろうね。
  • トイレにはクレゾールを溶かした水が琺瑯製の洗面器に入れてあって、手を洗った後消毒した。ハンカチはいつもクレゾール臭かった。
  • ハンカチは真ん中に大き目のボタンをくるんで、ゴム紐で止めて、そのままゴムひもを斜めがけにしていた。確かに洗濯が楽。斜め掛けとかって意外とトレンドだ。

こうしてみると、、、あまりよい思い出がないなあ。
ほとんどの子は西条小学校へ行った。わたしは数少ない寺西小学校だった。
小学校の低学年くらいまでは、4月生まれと3月生まれの差は顕著だ。生まれてからの時間が1年も違うのだから仕方がない。ランドセルに背負われ、線のか細い子供だっただろうと思う。受難の数々、全部は覚えてはいないけれど。

誰が・・これほど傲慢な人になると思っただろうか(笑)。

年金がやばい

もうずいぶん前に企業年金は確定拠出年金という制度に変わった。会社分の掛け金はあげるから自分で運用しなさい、ということだった。
運用といわれても、株に強いわけでも経済状況に詳しいわけでもないので、右も左もわからない。うちは2人働いているので、片方はセーフサイドで、もう片方はリスクサイドで掛けることにした。自分はリスクサイド担当である。

これまで確定拠出金のサイトを見ることは年に1度か2度くらいしかなかったけれど、定年が近くなると必然的にいくら貯まっているのかが気になる。正月明けからブラウザにはお気に入り登録してちょくちょく見るようになった。

企業が暮れる掛け金だけだと、30年以上働いてきても、え?こんだけ?というくらい。それでもせっかくなので増やせるものは増やしたい・・。そう思ってきたのだけれど、、。

最後に見直しをしたころ、まだコロナがショックになる前の話で、こういう時にはきっと特需が発生するにちがいないと踏んで外国債を増やして、国内株式・債権を下げた。が、、どうやらこれが素人考えというやつだったらしい。

コロナはショックになり、特需どころか停滞を通りこして麻痺してしまった。
大暴落・・・すでに原価を割り込んでいる。
この先が見えない状況で、春の選抜は中止になり、あれもこれも中止になり、このままオリンピックまで中止になった暁には、たぶん原価割れどころではすまない状況になるにちがいない。

このまま様子を見て回復を待つのか。
今すぐ売り払って元本保証に変えるのか、、でもそれだとせっかくもうちょっとと思っていたところから50万近くダウンしたところで手を打つことになる。

素人のくせに強欲。。。結局そのまま置いて様子を見ることにした。
はやくコロナショックが終わればいい。。そう思うけれど、毎日着実に患者数を増やしている模様。うかつに外にも出られないと思っていたら、意外にも電車は日々以前の混雑を取り戻しつつあるような気がする。

日本全土。もうどうにでもなれ、、の心境なのかもしれない。
きっとオリンピックが始まっても、殺気立っているだろう。

2020年3月13日 金曜日
13日の金曜日・・・ついに50万円ダウンしたーーー(´;ω;`)。
全部売り払って定期にしておけばよかった・・・。

コロナショックとテレワーク

テレワーク。いうまでもなくコロナ対策である。SARSの時ですらこんなにひどくはなかったと思う。

実はオリンピック対策として、最近だとコロナ対策としてテレワークが表舞台に出る前から、ずっとテレワークはしていた。正確に言うと、会社に行くメリットがあまりない日はテレワークだった。
以前ほど「会社にいること」は重要視されない。会社に行けば余計な雑音も入ってくる。何かを管理することだけが業務ならそれでもいいのかもしれないけれど、例えば午後から客先訪問するための資料がまだできていない、そしてそれを自分が作らないといけないというときは、余計な雑音は不要である。
今のように却ってテレワークが当たり前になってくると、そういうメリハリとは関係なく在宅でパソコンに向かうことになる。

結論から言うと、テレワークはそれが一番効果が高いという場合でなくては本来あまり意味がない。
1)生産性が高い場合
集中して調べたり、考えたりする場合や、電車で会社に行って、またさらにそこからどこかに行く。移動時間する惜しいときにはテレワークがいい。目的に向かって同じベクトルにあるとき、一緒に作業をするメンバとのやり取りもおのずと活発になる。
2)メンタル的な休息
全部の情報ではなく必要な情報をピックアップして最低限の対応で済ませることができるのは、特に疲れているときには効果的。結果的に良い成果を生むことのほうが少ないので、あくまでも副次的な使い方でしかないと思うけれど。こういうのは、Facebookに似ている。
3)パンデミック防止
ちょうど今のような状況。物理的な人との接触が危険といわれるときにはもちろん役にたつ。成果は二の次の場合である。

勘違いテレワークも多いと思う。実際自分でも雨の日は会社に行きたくない。予定表を見てリモートで済むようなそうしてしまう。働き方改革=テレワークとはちょっと違う。テレワークをしていて、自由な働き方を推奨するのに、自宅で子供の面倒を見ながらテレワークはおかしいと言ったり、体調が悪いからテレワークはおかしいという。もともと境目がはっきりしていない。
本当に働き方を改革するなら、労働時間よりも就労意識のほうが大事なんじゃないだろうか?

それもこれも、、労働時間が実際長くて疲弊してしまう労働者とやっていることが楽しくて苦しいけどうれしいという労働者の区別がつかないからかもしれない。もしかすると残業代がかさむのを防止するための体のよい言い訳なのかもしれない。
「会社」とか「学校」とか。とかく組織というものは、一律のルールにしなければまとまりがつかない側面があって致し方ないところもあるけれど、どうやったら楽しんでやっているのかどうか見分けがつくようになるんだろう。

一つ思うのは、日本の会社は自分も含めてきっと管理がへたくそなのだ。人情とか横連携期待とかでプロジェクトを進めようとする。顔色、声音、空気感で状況を把握しようとする。テレワークにするとそういったことができない。
実は楽なようで楽ではないテレワーク。そういう状況で尺度を持たない進め方を美徳としてきた管理はハードルの高い作業になるだろう。

コロナが収束して(すればだが)、落ちるところまで落ち込んだ景気とか、遅れに遅れた対策とかが露呈したときに、また何か見えてくるような気がしなくもない。
そして、オリンピックは本当にあるのか・・・?コロナ収束直後の日本に来たいという人などいるのだろうか。

https://toyokeizai.net/articles/-/332952