0(ゼロ)オリジン(1)

ゼロオリジン

オリジン(Origin)、というのは直訳すると「原点」である。原点というからにはそこを「起点とする」ということになる。だから、ゼロオリジンというと0を起点として、という意味で、1オリジンというと1を起点として、という意味になる。
よく似た感じの言葉にOriented(~志向の)という言葉がある。便利なのであちこちで見かける。IT関連だとdata-oritented、user-orientedなどなど。これはどちらかというと、起点というよりは「優先的に考える」というベクトルを示した言葉だと思う。もう一つ、Baseline(ベースライン)という言葉も少し似ている。こちらはその通り基準線という意味なので、点であるオリジンと比べると複数の要素をまとめた状態を表している。

さて、冒頭の0オリジン。要は0からの出発なわけで、何もない状態から始めるという意味に転用できる。同じ意味で0ベースという言葉もよくつかわれる。とにかく何もないことである。

働き方改革のもたらす悪癖

最近「働き方改革」で個人や企業にスポットを当てた取り組みをよく見かけるけれど、単純に労働時間を短くしたり、働く場所を自由化しただけでは、会社としては投資ばかりがかさんで回収に至らないことが容易に想像できる。つまり、残業込みで達成できていた成果が残業なしになって今日明日出せるものではないということである。ヒトの性質を考えると、楽なものにはすぐに慣れてしまうので、このまま放置すればおそらく社会的な体面は保てても成果はダダ下がりになる。働き方のマイナス面である。
そこで会社も考えた・・・んじゃなかろうか。「ジョブ型」という考え方が出てきた。出てきた、というわけではなく、もともとあったものだろうと思う。ただ、これまで顕在化してこなかっただけで。

ジョブ型とメンバーシップ型

ジョブ型の対向用語はメンバーシップ型だそうだ。メンバーシップ型はいわゆる年功序列方式、一括採用方式でこれまで(今でも)主流の会社の雇用方式である。会社主体なので、自由度は少ないかもしれないが使える社員になるべく会社がケアしてくれる。また、保障も手厚い。
一方のジョブ型は、平たく言うとその反対で、仕事ありきで人と契約する雇用方式になる。その仕事ができることが前提条件となるわけだから、当然会社側は教育したり、契約以上の保障もしなくてもよくなる。雇われた方も、自分が売りにしている能力を買ってもらうわけだから単金は高いだろうし、契約内容にないことまでする必要がない。一見Win-Winに見えるけれど、会社で働く人全員がジョブ型になると、契約だけで大変なことになるような気がする。

会社の構造

今でもそうだけれど、会社には会社としての存在意義がある。つまり、社会に対してうちの会社はこうやってお役に立てます、というコンセプトのようなものである。ニーズがあれば売れるし、なければ振るわない。その辺は、スーパーで売っているモノと変わらない。もう一つブランドという側面もある。対してデザインもよくないし到底普段使いにできないでしょ、というモノでもLouisVuittonなら売れるというのと同じで、歴史と積み重ねた実績・信頼で裏打ちされた会社の価値のようなものもある。そして、それらの会社は長年メンバーシップ型の雇用を続けてきた。
会社に入るとわかるが、自分のやっている作業が会社のコンセプトのどのあたりに位置するモノなのかを見ることは難しい。全体としての方向性が大幅にずれていない限り、、、例えば、IT企業がうどんを作るということでもない限りは、会社は利益を追求する組織だから予算必達が命題で、さまざまな作業を請け負いこなすわけで、余計見えにくくなる。個々の位置から全体が見えなくなるなら、逆に上から見て個々の社員が何をしているのかなど見えようもない。そこは巨大なヒエラルキー構成の中で直近が下を見る(良くて上の上くらいまでは見るかもしれない)という構造でなんとか凌いでいくことになる。
個々=一人ひとりの社員は人なので個性もあれば個体差もある。むしろ、全員が全く同じ状態ならクローンのようで気味が悪い。
そして会社には時として利益を追求するために大幅な方向転換や組織の改正がある。
そこではどうしたって、スピンオフしてしまう個体が出てしまうのは当たり前の理屈である。
・いわれたことをこなすのに慣れてしまう
・会社が決めてくれる
・さぼってもわからない
こんな個体はおそらくどこの会社を見ても必ずいる。押しなべて個人が悪いというよりは大半は会社の責任だが、その会社も変えなければ倒れてしまうので責められないというこちらはLose-Loseの関係にあるように思う。

会社はジョブ型に移行できるのか?

思うことだけ言ってしまえば、できない。
ジョブ型の特徴はシゴトありきで人を割り当てる、である。もっと言えば、シゴトありきで応募した人の中から割り当てる、となる。必然的に上司は上司という「役割」に対して、部下は「部下」という役割に対して、つまり、そのシゴトを構成する業務の役割と活動の募集に対して応募する。
よくシゴトを取って、協力してくれるパートナー社員を探す、ということをするけれど、極論それと同じことを会社の中でやろう、ということである。
気の遠くなるリスクとオーバーヘッド。
もちろん社員が全員個人事業主ならともかく、シゴトを受けないからといって会社は雇用契約をしているので、給料は支払わないといけないし、福利厚生も手厚くしなければいけない。これでは、よほど残業代が欲しい人以外はWin、会社はLoseの関係になる。
では、全員個人事業主にしたら?まず、会社の組合は解散になるので、面倒な交渉はなくなる。社員は一人ひとり自分に対する福利厚生を考えないといけなくなる。シゴトも自分からやります、やらせてくださいと言わなければなくなる。個人事業主なので、最低賃金の保障はない、ただお金が入らなくなるだけである。会社は社外からでも好きなだけ人を雇えるようになり、福利厚生も考えなくてよくなるので、結果的にうまく回れば成果は出るだろうが、何を売りにしているのかよくわからない集団になる。いいとも悪いともつかない主体が2つこれもまたLose-Loseの一つの姿である。
おそらく、会社という組織において、ジョブ型の雇用ができるのは、マネジメントを売りとする会社なのではないか。モデルエージェンシーとか商社とか、芸能プロダクションもそうかもしれない。つまり、マネジメントする対象はすべて外から雇うのが当たり前の会社である。

ジョブ型移行のジレンマ

今あまたある会社をせ~の!でジョブ型にシフトすることは難しい。というより土台無理な話である。逆に会社のすべてをジョブ型にすること自体が非効率につながる。会社には受けたシゴトをこなすためにある程度の労働力のストックが必要で、ストックした労働力をストックで賄いきれないだけのシゴトを請け負うことで利益を出す。そこにジョブ型の要素はあまりない。あったとしても請け負ったシゴトの中でどれをやりたいか程度のものだし、シゴトをストックに選ばせては効率化は図れない。もっと言うとストックは必ずしもジョブ型志向の個体で構成されていないのが現実なので、ストックの中で比重にばらつきが出る。負荷が重い個体は作業をこなすだけでいっぱいになる反面、この個体が一番ジョブ型に適したモチベーションを持っているのだから性質が悪い。これがジョブ型移行のジレンマだと思う。
一日の労働の中の20%を新しい領域へのチャレンジを行うとか新しい取り組みを考えることに使う、とか。いろいろな提案が会社からは出てくる。苦肉の策なのだろう。
会社の中で各部署からお願いしたいシゴトをエントリし、それに応募してもらうというう企画もあった。
結果はいずれも惨憺たるものである。どうしてか。

ジョブ型移行のカギは

ジョブ型雇用はシゴトありき。ジョブに応募するにはそのジョブの特性に応じた専門性が必要なものである。専門性とはなにか。その領域のプロであり、高い生産性と場合によっては付加価値を提供できることである。ただの素人が1日の20%考えたり、小作業とはいえやったこともない作業に応募したくらいでジョブ型移行にはたどり着けない。
そもそもジョブ型の大前提が「個人」なのだと思う。自分もしくは自分が率いる組織がその領域について高いスキルをもっていなければジョブ型には移行できない。同じ理屈で、組織に所属するメンバも全員高いスキルと知見を持っていなくてはいけない。日々自己研鑽し磨き上げていくルーチンがない状態ではとてもそんな状態にはならない。
裏を返せば、そういう状態になればジョブ型の契約はできるということになる。
「その領域のプロ」という言葉を敢えて使った。プロといわれる人は、その専門的なスキル以外に社交性、交渉力、専門以外の知識といったフルレンジの要素を備えていることが多い。専門性だけではプロにはなれない。

会社はジョブ型に移行できるか。「育てる」という概念から「自ら学ぶ」という概念へ。「ただの配属先の組織」から「目的を持った個人の集まり」という概念へ。どこまでシフトしていけるかが、一つのカギになると思う。
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