血止草(チドメグサ)という雑草がある。繁殖力旺盛で半日蔭を好む雑草で、道端でよく見かける。この丸い葉っぱを傷口にぺとっと貼り付けるのかと思っていたら、つぶして汁を塗るのが正しい使い方らしい。
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小学校の帰り道。
そもそも学校というところがあまり好きではなかったので、楽しい日はあまりなかった。結構な頻度で帰り道はとぼとぼとくらーい気分で帰ったものである。通学路は開けたとはいえ、田んぼのあぜ道に近くて、周りには草がぼうぼう生えていた。ほぼほぼ家に近いあたり、子供が野球できるくらいのグランドがあったのだけれど、その土手の下の道が通学路だった。舗装もされてなく(のちにアスファルトの道になったけれど)砂利を引いた道で、この辺りまで来るとあまり陽が当たらないせいか、すぐそばに池があったせいかいつもジメジメしていた。
その土手下あたりに群生していたのがチドメグサである。春になると雑草といえども色とりどりの花が咲いて、夏休み明けにはどんだけ伸びたんだというほど草の生い茂った道端だった。
楽しくない帰り道、凹んでとぼとぼと帰る帰り道は、学校で面白くもなく、帰ってからも面白くもないことへのいら立ちと情けなさと。いろんな感情がもみくちゃになって、これを1年といわず何年も続けたのだから、我ながら立派である。
帰り道、この土手下まで来るといつも思った。
この草になれたら世間はどう見えるんだろう、と。
たいして変わり映えしない毎日で、雨風遮るものもないけれど、もしかしたら頑張る必要もなくのんきに暮らしていけるんではないかとよく思ったものである。
そして、もう50年近く経とうとした今でも、ついそんなことを考える。
雑草に感情はないかもしれない(音楽を聞かせるとおいしくなる果物やトマトはあると聞いたことはあるけれど)。雑草自体にはあまり価値もないかもしれない。
雑草に限らず、この世の生物の目的は繁殖し繁栄することだと聞いたような気がする。たとえ意味も価値もなくても、淡々と日々成長し、種を飛ばし、芽生えて広がっていく。とてもシンプルな生き方だけれど、負けない強さがある。自分自身はそこを動くことはなくても、飛ばした種はいろいろな形でいろいろなところへ旅をするのだろう。
とても、今日が嫌だからと言って、簡単にはなれそうにはない。
それでも、怒られてばっかりの憂鬱な毎日に居て、この草になれたら、、と考えるのは少し救いだったな、と今思う。今でもそう思う。