男女雇用機会均等法がもたらしたのは・・・

男女雇用機会均等法

入社したのは昭和最後の2年前の62年だった。年度は62年度。
この2年後の昭和64年1月8日からが平成に変わった。あともう3ヶ月ほどで昭和64年度が終わるところが、途中で改元となった。
昭和62年は西暦でいうと1987年。この前の年に「男女雇用機会均等法」が施行された。男女雇用機会均等法は正式には「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」というそうだ。1985年に制定され、1986年施行された。内容としては企業の事業主が募集・採用や配置・昇進・福利厚生、定年・退職・解雇にあたり、性別を理由にした差別を禁止することなどを定めている。

最近の女子社員の人生設計

先日会社の同僚(男子)が、「今の若い女子社員は出世も望んでいなくて、そこそこ名が通った会社に就職できたので、あとはゆるゆると過ごしていきたいと思っている」と言った。
ここ数年、せっかく入社しても2~3年で退職する若手が増えていて、会社の中では問題になっているらしい。若手への待遇は手厚くなるばかりで、さりとてやめたがりはなくならないらしい。
前述の発言は、そんな若手社員(女子社員)へのヒアリング結果であるらしかった。「信じられなーい」といった面持ちで語っていたけれど、「信じられなーい」方が信じられなーい、である。それはごくごく当たり前の現象だろう、と思えてならない。

雇用機会均等法ができたころ

個人的にそこまでの待遇の違いがあると感じてはいなかったけれど、世間ではちょうど社会党の土井たか子が台頭してきたころだったし、政治の世界でもとかく派手な色のスーツの女性議員が増えてきた頃だったと思う。右を向いても左を向いても、新しい法律に戸惑うような感じのご時世だった。
たぶん、世の中の女性は今や死語となったウーマンリブを旗印に自分たちも男性と同様に働けると鼻息荒かったのだろうと思う。

雇用は均等になったけど・・

結婚したり、子供が生まれたりすることを契機に辞める女子社員はかなりの数がいた。たぶん入社時の1/3強は女性だったと思うけれど、今残っているのは自分も入れてたぶん2~3人だ。絶対やめないだろうと思っていた同期すら、最後には辞めていった。それは辞めざるを得ない状況もあっただろうけれど、実際のところやっぱり辞めることを前提で就職していた向きがないとはいえない。
一方で、結婚しても出産しても会社を辞めなかった自分には、たとえ休職していても社会保険費の支払いは必要で、収入が0なのに持ち出しで会社の口座に振り込まなければならなかった。もちろん、今でも独身と同じ扱いの税金も保険料も収めている。つまり、扶養家族にはなれなかったということである。7月頃から出産休暇、9月に出産して、続いて育児休暇、翌年4月には復職した。
ちょうどプロプラが廃れて汎用OSであるWindowsやUnixやLinuxが出てきた頃だった。復職してもできることなどないのではないかと焦った。

あれから随分制度もかわった・・

時分のときから数年後にはもう休職中の社会保険費用の支払いは不要になった。結婚を機に異動にこそならなかったのがせめてもの救いだったかもしれないけれど、あれこれ苦労したのが夢のような制度改革が次々あって、今は入社に際しても男女の区別はなし、妊娠・出産して復職した後のケアまで手厚い。女性管理職の少なさを指摘されれば登用枠をわざわざ設けたりする。
従業員を(労働力を)減らさないことのほうが重要だと思われているのだろう。

これ以上ない環境で思うことは・・

以前は子供が熱を出して休むことさえはばかられた時代だったけれど、今は破格の待遇である。自分がどうしてもやりたいこと、がなく会社に居られさえすればよいのなら、会社が言う通りに作業をして息長く暮らしていく方がいい。
女子の待遇改善に躍起になる必要もない、子育ては何より重要な作業で時としてそれは顧客を凌駕する。迷惑をかけるくらいなら、最初から適当なポジションに位置していた方がいい。

・・・だって、それでも待遇は悪くならないんだし♪

というのが今の女子社員のホンネなんじゃないだろうか。確かにどれも大事な作業だし、どれもある意味正しい。

男女雇用機会均等法がもたらしたものは・・

なんだったんだろう・・?
会社人間といわれて24時間休まず働いて、時期が来て定年になったら家の中には居場所すらなかった、という笑えない話があるけれど。女性の社会進出が確かにこの法令を契機に飛躍的に進んだのは確かだ。男性に負けまいと必死で頑張った人たちもたくさんいた。シゴトに時間を割く分手に入れることができなかったことも多々あるだろうし(実際あったし)、なんとか折り合いをつけてシゴトを続けてきた人も多かっただろう。確かにシゴトの場にいれば、忙しく充実した毎日を送れたかもしれない。視野も広がったかもしれない。けれど、家で居場所がなくなったおじさんたちと同様の現象がこれから仕事を辞める女性には起こるのかもしれない。
子供を、家庭を最優先に考えること、あまり苦労せずそこそこの給料をもらうこと、責任をあまり追わず作業できること、女性だからといって軽視されず、でも大事にしてもらえること。
男女雇用機会均等法がもたらしたものは、もしかすると働く女性の発言力と生活の水準を上げただけで、実は法令施行前に回帰しているだけかもしれない。

道端の草になれたら

血止草(チドメグサ)という雑草がある。繁殖力旺盛で半日蔭を好む雑草で、道端でよく見かける。この丸い葉っぱを傷口にぺとっと貼り付けるのかと思っていたら、つぶして汁を塗るのが正しい使い方らしい。

小学校の帰り道。
そもそも学校というところがあまり好きではなかったので、楽しい日はあまりなかった。結構な頻度で帰り道はとぼとぼとくらーい気分で帰ったものである。通学路は開けたとはいえ、田んぼのあぜ道に近くて、周りには草がぼうぼう生えていた。ほぼほぼ家に近いあたり、子供が野球できるくらいのグランドがあったのだけれど、その土手の下の道が通学路だった。舗装もされてなく(のちにアスファルトの道になったけれど)砂利を引いた道で、この辺りまで来るとあまり陽が当たらないせいか、すぐそばに池があったせいかいつもジメジメしていた。

その土手下あたりに群生していたのがチドメグサである。春になると雑草といえども色とりどりの花が咲いて、夏休み明けにはどんだけ伸びたんだというほど草の生い茂った道端だった。

楽しくない帰り道、凹んでとぼとぼと帰る帰り道は、学校で面白くもなく、帰ってからも面白くもないことへのいら立ちと情けなさと。いろんな感情がもみくちゃになって、これを1年といわず何年も続けたのだから、我ながら立派である。

帰り道、この土手下まで来るといつも思った。
この草になれたら世間はどう見えるんだろう、と。
たいして変わり映えしない毎日で、雨風遮るものもないけれど、もしかしたら頑張る必要もなくのんきに暮らしていけるんではないかとよく思ったものである。

そして、もう50年近く経とうとした今でも、ついそんなことを考える。
雑草に感情はないかもしれない(音楽を聞かせるとおいしくなる果物やトマトはあると聞いたことはあるけれど)。雑草自体にはあまり価値もないかもしれない。

雑草に限らず、この世の生物の目的は繁殖し繁栄することだと聞いたような気がする。たとえ意味も価値もなくても、淡々と日々成長し、種を飛ばし、芽生えて広がっていく。とてもシンプルな生き方だけれど、負けない強さがある。自分自身はそこを動くことはなくても、飛ばした種はいろいろな形でいろいろなところへ旅をするのだろう。

とても、今日が嫌だからと言って、簡単にはなれそうにはない。
それでも、怒られてばっかりの憂鬱な毎日に居て、この草になれたら、、と考えるのは少し救いだったな、と今思う。今でもそう思う。